ククリア学園 non-alcoholic restorative-grape juice-
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ククリア学園

-Astorni & Isukarna-

non-alcoholic restorative-grape juice-

 
 娘は途方に暮れていた。
 聖イスカルナ女学院とアストルニ学園の交流会会場のど真ん中で。
 こういう場に慣れている二つ年上、高等部三年の姉と待ち合わせを決めたは良いが、まったく現れる気配がない。
 気まぐれな姉の事だから、きっと妹の事より自分の事を優先して楽しんでいるに違いない。
 唇を尖らせて、辺りに視線を彷徨わせる。色とりどりの華やかなドレスが揺れている。どの娘も煌びやかに着飾って、堂々と誇らしげに会場を彩っている。
 お前に似合うと言われて両親に贈られたコバルトブルーのドレスは、つい先ほどまでは自分に誰よりも似合っていると思えたのだが、今はそんな自信など完全に消えてしまった。
 着慣れないドレス、履きなれないヒールの高い靴、そして何よりも大勢の人間が行き交う居心地の悪い場。そのすべてが娘の胸を詰める。息苦しくて、体を屈めたところへ、後ろから衝撃が――人ごみの中で座り込むような姿勢になってしまったせいだろう。
 前のめりに膝と手をつきそうになったところで――ああ、ドレスと手袋が汚れてしまう――お腹の辺りを何かに支えられて踏みとどまることが出来た。
「――大丈夫ですか、レディ」
 耳元に低く張りのある声が届く。
 息を呑んで振り返れば、灯りに煌めく翠色と目が合った。翠を縁取る睫毛。切れの長い目じりは少し上がっている。力強い眉毛と通った鼻筋。印象的な大きな口。全体的には細面の整った顔――すべてを認識して我に返る。
 お腹を支えているのは力強い左腕。左手に優しく添えられているのは白い手袋に包まれた右手。しっかりと抱きとめられて、距離が近い――意識した途端に、流れる血が沸騰したような気がした。
「きゃっ……あっ……ごめんなさい……」
 勢いよく身を退いて――即座に失礼な態度であることを後悔する。助けてもらっておきながら、叫びをあげて離れるなどあまりにも無礼だ。
 大きく息を吸って整える。
「えっと……その――ありがとう……ございました」
 慌てて頭を下げれば、ゆっくりと頭が振られて、優雅な紳士礼。アストルニ学園の制服を身に纏った姿に相応しい身のこなし――左二の腕に巻かれた赤い腕章は、確かこの会の運営を担う立場の証だ。
「いえ――こちらこそ咄嗟の事とはいえ、不躾に触れてしまい大変失礼を」
 大きな口が優しく弧を描いている。
「お怪我はありませんか?」
「はい。お陰様でどこも……本当にありがとうございました」
 深く胸の内から息を吐く。まだ先ほどから感じていた胸苦しさが残っていて、それと緊張が合わさり、娘を動揺させようとしていた。胸元を押さえて、呼吸をするという行為を強く意識して整える。
 翠の瞳が真っ直ぐに自分を見ているのが感じられたが、それは意識しないように――そうしなければ更に動揺してしまう。
「――ふむ……」
 何かを思案しているかのような呟き。こちらの顔を伺うようにしているのがわかる。羞恥に顔を伏せ、視線から逃れる。
 離れたけれど距離は充分に近い。こんなにも男性の気配が側近くにあったことは家族以外になくて、更に胸が苦しくなる。
 薄い笑みの気配がして――遠のく。こっそりと視線を上げると、側近くを通ったウェイターに声をかけていた。動きに惹かれるように見守っていると、グラスを一つ手にして戻ってくる。
 濃い紅の液体がグラスには満たされている。
「――どうぞ」
 自然な動きで差し出されて思わず受け取る。目線と小首を傾げることで問いかけに代えると、深い笑みが整った顔に広がった。
「アロンソの葡萄ジュースです。ジュースと言うよりはワインに近い味わいで、酸味がある。アルコールは入っていませんが――まあなんというか……気付け薬的に」
 悪戯っぽい影を宿した瞳と言葉に、心を優しく撫でられたような気がした。視線をグラスの表面に落とす。綺麗な紅の葡萄ジュース。濁りがあるのは、濃厚に果肉が使われているからだろうか。
 そっと口にする。とろりとした液体が舌に触れる。言葉通り確かに酸味があって、目が覚めるような刺激が意識に働きかけてくる。笑みが零れた。
「……美味しいです」
「それはよろしかった」
「気付け薬……気を遣ってくださったんですね」
 胸苦しさも、緊張もすべて見抜かれていたに違いない。すっきりと切れ上がった翠の瞳は、何でも見通してしまいそうだ。
 大きな口の口角が深く上がった。
「失礼ながら、苦しそうにされていたので。顔色も少しよろしくなかった」
「……そうですか……お恥ずかしいですが、少し……気後れしてしまって」
「気後れ、ですか」
 真っ直ぐに背筋を伸ばして、正面から向き直る。目の前の人は、細身で背が高い。薄茶色の髪。少し浅黒い肌。改めてみれば、男前と言える人だと思う。
「こういう場は、初めてなのでどうしても。でも周りの人は皆、すごく慣れているみたいで、楽しんでいるようで……凄く自分が場違いではないか、と」
 翠の瞳が瞬く。瞬間何かを思案するように眇められて――柔らかな曲線を描いた。
「なるほど。ですが、皆が皆慣れているわけではないと、私は思いますが」
「そう……でしょうか」
「我がアストルニ学園も、聖イスカルナ女学院も上流階級の子息子女が多く通っていますから、確かに慣れてる者もそれなりにはいるでしょう。ですが、そうでない者も多い。たとえば――」
 大きな口が、悪戯っぽく、今までとは違う雰囲気の笑みを纏った。
「私――否、俺も別に慣れてはいない」
「……まあ」
 視線を合わせる。お互いを伺うように。
 胸の内から笑いが込み上げて――同時に破顔した。
 小さく声を立てて笑う。口元に手を当ててあくまでも上品さは装うが、普段の自分に近い心持ちで笑えている。
 目の前の人も、今までの紳士然とした笑みではなく、ずっと親しみの感じられる表情で笑っている。
 娘の中から緊張が更に消えた。
「多かれ少なかれ、皆、緊張して背伸びしていると思いますがね」
「ふふふ……そうかもしれませんね」
 大きく息を吸って吐く。ずっと楽に自然な表情が出来るようになった。
「だから、こうした場に慣れてる姉さんと一緒にと思ったのに……」
「お姉さん?」
「同じ女学院の高等部三年で、今日は一緒に行動すると約束して――すっぽかされました」
「ふむ。では、こちらで呼び出しの方を――」
 確かにこの人に頼めば、姉と合流出来るだろう――しかし娘は首を横に振った。
「いえ。良いんです。姉さんは姉さんできっと楽しんでいると思うので、邪魔はしないようにしないと。私は私で――それなりに楽しもうと思います」
 背筋を伸ばして、笑顔を作る。賑わう周囲。色とりどりのドレスとざわめきに取り囲まれていることを意識すると、まだ心細さがある。
 そんな己を自嘲気味に笑って、息を吐く。
「まだ――気後れはしますけど」
「簡単には、慣れるものではないでしょうしね」
「ええ、本当に。どうして皆、あんなに堂々と振る舞えるのかしら……重くて鎧のようなこんなドレスも軽々と着こなして……よく似合っていて羨ましい」
 愚痴になってしまった言葉の最後はあくまでも小さくささやかなものに止めてざわめきに紛れ込ませたけれど、側近くの人には当然のように届いたらしい。
 ゆっくりと歩み寄ってきて、隣に――適度な距離が保たれている――並んだ。娘と同じように、周囲を見回す。
「失礼ですが、貴女が気後れをしているのは“自分と周りを比べている”から――ですね」
「……比べている……」
「自分より慣れているように見える、自分より堂々としている、自分より――ドレスが似合っている。周りよりも“下に置いた自分を中心にしている”から、気後れする」
 鋭い指摘に、瞬間心が冷える。本当にその通りだという事はよくわかっている。自分を貶めて――それでもそうせずにはいられない。
 この場の空気に呑まれて。
 そっと横目で見上げれば、厳しいことを口にしながらも、優しい微笑みが口の端に乗っていた。
「ですから、まず“自分を忘れて”みたらどうでしょう」
「自分を……忘れる?」
「自分より堂々としている、ではなく、あの人の堂々とした振る舞いは見ていて気持ちが良いとか、慣れているのが羨ましい、ではなく、物慣れている様に感服するとか――自分を比較対象にしないように」
「ああ……」
「なかなかそうした気持ちの問題は難しいところもあるかもしれませんが――そう、綺麗なものを見るのは好きではありませんか? ですからドレスの方も客観的に、形が綺麗だとか、あの色が好きだとか、あの装飾品が素敵だとか、そう言った目線で見てみると楽しめるかもしれない」
 成る程と思う。確かにきらびやかなドレスはそれそのものだけを見れば目に楽しく、心が弾む。庭園に咲き乱れる花や、美術館で宝飾品を見る時と同じように。
 娘は深く息を吐いて頷く。
「確かに、そうですね……そう……あちらの方のドレスは腰に結われた大きなリボンが可愛くて」
「ああ――あれはなかなか凝った結び方で、印象的だ」
「きっと結ぶのに時間がかかったでしょうけれど、まるで大きな花のようで凄く素敵」
 娘は視線を巡らせて、目に止まった心惹かれるドレスの特徴を挙げていく。
「あちらの方のドレスは裾が綺麗に波打っていて動くたびにふんわりと揺れるのが、見ていて楽しい」
「そうですね――ですが少し丈が長すぎるような……側近くに寄る時は注意をしないとだ」
「ふふふ……確かに普通のドレスより気を遣わないとかもしれません。でも、巧く着こなしてらっしゃるみたい」
 周りに溢れる様々な美しいドレス。その色、形、飾り。可愛らしいだとか、綺麗だとかそんな簡単な感想しか述べられなかったが、聞いてくれる人は丁寧に一つ一つに相槌を打ってくれる。
「後は――あっ……あちらのお二人、見えますか?」
「二人……」
「右手の奥にいらっしゃる」
「ああ。赤のドレスとピンクのドレスを着ている?」
「はい――ソルの乙女様とエナの乙女様」
「ソルとエナ……太陽と月、ですか」
「赤いドレスを着ていらっしゃるのがソルの乙女様――セリーナ・ギロー様。ピンク色のドレスを着ていらっしゃるのがエナの乙女様――アイネズ・フレデリック様。お二人とも伯爵家の御令嬢で、幼馴染。いつも二人で一緒にいらして、あの御容姿なので、太陽と月の乙女様と呼ばれているんです」
 一学年上、高等部二年のセリーナ・ギローとアイネズ・フレデリックは女学院の中でも目立つ存在だ。家柄、容姿、振る舞い――そのすべてが本物の淑女そのもので、中高等部下級生達の羨望の対象だった。
 今も、二人寄り添うようにして佇む様は一枚の絵画のよう。セリーナ・ギローが身に纏ったドレスは鮮やかな赤。はっきりとした目鼻立ちの艶やかな容姿にとても似合っている。アイネズ・フレデリックが見に纏ったドレスは淡いピンク色。ふんわりと柔らかな色合いが、人形のように硬質な容姿を優しく包み込んでいる。
 娘は深く感嘆の息を漏らす。
「ああして、佇まれているだけでも本当に絵になって……」
「確かに、目を惹かれるお二人だ。ドレスも見事に着こなしている」
「ええ。こうしたドレスは、やはりあのお二人のような方が着てこそ、という気がします」
 それは自分を下に気後れしているわけでもなく、心の底からの羨望であり憧れからの言葉。同じ高さに並び立とうなどとは思わない。
 隣で、長く息が吐かれる音がした。その音に惹かれるように、太陽と月の乙女を見る横顔を、そっと窺う。
「……確かに大変ドレス姿が絵になるお二人ですが」
 言葉が切られ、翠の瞳が娘を見る。瞳が娘の頭の上から下まで確認するように動いて、細くなった。頷きが一つ。大きな口には優しい笑みが浮かんでいて
「貴女にも、そのドレスは大変似合っていると思いますが」
 娘の不意を衝き、息を止め、血を昇らせた。
 耳に届いた声音も、向けられた笑顔も、すべてが“本物の色”をしていてお世辞ではない事が伝わってくる。
 体が熱い。先ほど抱き留められた時と同じように、体中に熱が広がっている。胸元に強く両手を添えて、深く呼吸を再開させる。顔が完全に赤くなっていることが自覚されたけれど、翠色の視線から逃れようとは思わなかった。
 再開した呼吸を整えて、一度大きく吸う。
「あの……貴方の――」
 思い切って紡ごうとした言葉は、しかし、かき消されてしまった。
「――エレイン!」
 聞き覚えのある、高い声によって。
 声に引っ張られて顔を巡らせると白に近い水色のドレスを身に纏った見覚えのある人が、形よく整えられた細い眉を吊り上げていた。
「――姉さん……」
「まったく……探したわよ? 待ち合わせは東側前方って話だったのに、こんなところで」
「えっ……西って言ったのに」
「何言ってるの。東って言ったわよ、東って」
「そ、そうだっけ……」
「あなたが独りじゃ不安だからって言うから一緒に――」
 勢いよく捲し立てるように喋っていた姉は、そこでようやく状況に気付いた。娘の側に控えるようにしていた人を見て小首を傾げる。
 娘もそちらを見て口を開こうとして――大きな口が笑みの形になる様に目を惹かれた。
「それでは、お待ち合わせの方も来られたようですので、私はこれで失礼致します」
 気配が遠くなる。一歩後ろに下がったからだ。すっきり伸びた背筋と、綺麗に揃えられた足。その姿勢に目を惹きつけられて、何も言えなかった――先ほどかき消されてしまった言葉も。
「この後も、ごゆっくりと会の方を楽しまれますように――」
 優雅な紳士礼がされて、そのままの動きで身を翻す。止める間もなく、人混みに歩み、消えてしまった。
 娘の胸の内から自然とため息が零れる。人混みにもう見えない姿を追う。
「ちょっとエレイン」
 物思いを無造作に破る姉の声。
「今の方、誰?」
「……アストルニ学園の係の方」
「それだけ?」
 そう――それしか知らない。無遠慮な姉に苛立ちながら、それを抑えるように拳に力を籠める。
「ちょっと気分が悪かったところで気を遣ってくれたの――それだけ」
 姉の目線も人混みを彷徨っている。
「わりと素敵な方だったじゃない……振る舞いも凄く紳士的で。さすが交流会の係をされてるだけあるわね」
 心からその言葉には同意だが、反応を返すのは何故だか癪に触った。
「さ、エレイン、前に行きましょう」
「――前?」
「会食スペースよ。あなたを探して何も食べてないからお腹が空いたわ」
 言われてみれば、娘も空腹である。先程飲んだ葡萄ジュース以外昼から何も口にしていない。
「姉さんは、いつもどちらかと言うと食い気だよね……」
「失礼ね。だって今日のお料理はフライダ・フェイのお料理なのよ。お腹が空いてるから以前に、食べなきゃ損よ」
「はいはい……」
 娘は姉に付き従って歩く。歩きながら、つい目の前から去った人を探してしまう。大勢の人の中、忙しいであろう係をしているあの人が簡単に見つかるはずもないのだが。
 その後一度だけ、娘は遠目にその人を見つけた。同じ腕章をした赤い髪の人と何かを話し込んでいた。おそらく仕事のやり取りをしていたのだろう。
 娘はその姿とあった出来事を、胸の奥に仕舞い込んだ。


written by ナイン
双璧の信頼-目次-


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